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沖浦和光『陰陽師とはなにか-被差別の原像を探る-』河出文庫,2017年

2004年刊行の『陰陽師の原像-民衆文化の辺界を歩く-』の文庫化。
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陰陽師といえば,式神を操ったり不思議な術を使ったりする超能力を持った人という想像をしてしまう。
しかし,それは比較的近年に起こった安倍晴明ブームから作られたものである。
戦前には,一般の人々には陰陽師についてのそのような具体的なイメージはなかった。
さらにいえば,安倍晴明についての超能力者的な造形もまた,室町期に形成された『簠簋内伝』や説教節によって生み出されたものである。
狐の子であるとか,一度死んで生き返ったといった超能力譚はこれらの創作によってあとから付け加わったものである。
しかも,これらの物語の主役は安倍晴明ではなく,安倍”清”明とされていた。
現実世界の平安時代の中級官人・安倍晴明に,物語世界の主人公・安倍清明の活躍が加えられて,それらを混然一体とさせたものが現代人の思い描く安倍晴明であるということになるだろう。

ところで,こうした派手で伝説に名を残すような陰陽師とは違って,現実に生きた陰陽師たちとはどのような存在だったのだろうか。
特に,官人として朝廷に仕えた人々とは別に,在野の宗教者としての民間陰陽師に著者は視線を向ける。
これらの人々は,古来からのシャーマニズムと渡来人系の道教に由来する巫術に携わる遊行者であった。
平民でも穢多・非人でもなかったが,通婚などにおいて蔑視される存在であった。
新年の門付け芸(”万歳”と呼ばれる)をしてまわったりしたが,やがてドサ回りの歌舞伎なども行うようになっていく。
集落の大半がそうした人々で占められる”役者村”も生まれた。
しかし,時代とともにそれらの文化は衰退していき,記憶している者もほとんどいなくなっていく。

著者はフィールドワークによって碑文や文書を読み解き,古老の話を聞き,わずかに残った伝承から往時を思い描いていく。
著者自身の生まれ育った土地との関わりやフィールドワークの話題があったかと思えば,史料や論文の読解に入ったりと,論述は単線的でないが,積極的に記録に残されなかった人々の歴史が独特のリズムで説き起こされる。

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2017.03.12 Sun l 文化人類学 l コメント (0) トラックバック (0) l top


安藤寿康『日本人の9割が知らない遺伝の真実』SB新書(Kindle版),2016年

行動遺伝学の安藤寿康先生による遺伝啓蒙本。
橘玲『言ってはいけない-残酷すぎる真実ー』の便乗本であることが「あとがき」で著者自身によって明かされている。
とはいえ,これまでの安藤先生の本と同じく,人間の行動や特性が遺伝するとはどういうことか,われわれはそのことをどう考えていくべきかということをより具体的,社会的な文脈に即して論じた本である。

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本書は架空の「かけっこ王国」のお話ではじまる。
人間の能力がかけっこで評価され,成人になる時点でのかけっこの成績によってどんな職業に就けるか,どのくらいの収入が得られるかが決まってしまう国だ。
なぜかかけっこが優秀な人のほうがかけっことは関係のないはずの,政治家や医者などのより社会的地位の高い職業に就くことができる。
そして,大人になるまではみんながんばってかけっこに取り組んでいたにもかかわらず,仕事に就くとたいていの人はすっぱりかけっこをやめてしまい,もううんざりとなってしまうのだった。
本書のテーマを考えれば,これが何のたとえであるかは明らかであるはずだ。

行きがかり上,本書の前半は,前提知識としての知能とパーソナリティの研究史,行動遺伝学の基本的な考え方の解説となる。
このあたりは『遺伝子の不都合な真実-すべての能力は遺伝である-』などの前著とも重複する。
新しいのは,後半での具体的な文脈における解釈・応用の議論である。

第4章,第5章では,各論的に短いセクションで多くの話題を扱っている。
おおまかにいえば,第4章は素質や才能の遺伝をどう考えて行ったらいいかという話で,第5章はそれを教育の話題にしぼっている具合である。
「家柄のいい男,才能がありそうな男,結婚するならどっち?」「教え方や先生によって学力は変わる?」「子どもの才能は,友達付き合いで決まる?」といった気になるタイトルが並ぶ。
これらの話題に関して,行動遺伝学の研究成果から,また,行動遺伝学の研究を通して得た著者の実感からの考えが述べられる。

教育に関しては,ややショックな指摘がなされている。
教育は人々の知識や能力を向上させるために行われる活動だが,実質的な効果はあるのだろうか。

たしかに全体としての知識や能力は上がります。しかし同時に,教育は往々にして個人間の格差を拡大させる方向に働くということです。教育だけではありません。一般にあらゆる文化的な仕組みは,それまで潜在的であった知識や能力の個人差をあからさまにし,図14のcのようにそのばらつきを広げることに寄与しているのです。


図14のcというのは,正規分布のような形の分布が,教育によって中心(平均)の値は高くなるものの,同時に横に平べったくつぶれた分布に変化するさまを表したもの。
つまりは,教育には実際に人々の知識や能力を高める効果がある。
しかし,みんなを同じにすることはできない。
むしろ,ばらつき(差)を大きくするのである。

本書を通じて一貫した著者の姿勢として,みんなを同じにすることはできないという発想があるだろう。
みんな違ってみんないい,というと聞こえはいいが,そのときどきの時代や文脈においてどうしても不利になる素質しか発揮できない人もいることを忘れてはならないと著者は言う。
だからといって教育をしなくてよいわけではない。
教育をしなければ,差は顕在化しないけれども,全員が低い知識と能力のレベルに留まることになり,幾人かが持っているであろう優れた才能も埋もれることになるからだ。
それは個人にとっても社会にとってももったいないことである。

また,中高までの教育を大部分の人が完全には身に着けられないもの,少なくとも,大人になってからほとんど残らないようなものであるという指摘に目を開かされる思いがした。

いったい学生時代,学校の授業を完璧にマスターしたと胸を張れる人がどのくらいいるというのでしょうか? これはその目で見ると実に奇妙で不気味なことです。ほとんどだれにもできないことを,あたかもできるのが当たり前のように扱われている。


最後の第6章では,人間の能力の遺伝という事実を受け容れて,社会そのものがどのように変わっていったらよいかを模索している。
本書では,一貫して遺伝という用語で語られているが,これは実は一般にいう“才能”や“素質”とほとんど同じ意味の概念である。
環境の影響をできるだけ取り除いたうえで,それでもなお個人の能力の違いを説明するものを“遺伝”と呼んでいるのだから。
つまり,本書の議論は,個人差というものをどう考えるか,どう考えるべきなのかについての議論としてそのまま読むことができる。
一人ひとりみんな違うということを本当に受け入れた後に,われわれはどんな社会を作っていったらよいのかというかなり広い射程を持った本である。

2017.02.13 Mon l 認知科学 l コメント (0) トラックバック (0) l top


池内紀『カント先生の散歩』潮文庫,2016年

カントに関する連載エッセイをまとめたもの。
2013年の単行本の文庫化。
『ゲーテさん こんばんは』や『モーツァルトの息子』の路線と思ったらいいか。

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カントといえば謹厳実直,近所の人がカントが散歩に出かける様子を見て時計の時間を合わせるといったエピソードが有名だ。
ところが,それはどうもカント本来のもともとの性分ではなかったらしい。

「歩く時計」に似た時間厳守は,一般にはカントのエピソードとしてつたわっているが,変わり者のイギリス商人のケースが少なからず入りまじったと思われる。あきらかに当初はカントが友人に合わせるかたちで始まった。それがいつしかカント自身の習い性になっていった。(p. 44)


カントには,グリーンという名のイギリス商人の友人があった。
この友人もまた生涯独身を通し,商会を経営するかたわらカントを招いて知的な対話を交わすことを楽しみにしていた。
話題は国際情勢にも及び,カントはいち早く最新の情報を得ることができた。
さらには,カントの資産は投資によって増え,年金を必要としないほどになった。

また別のカントの一面として,遅咲きの人であったことが取り上げられる。
ケーニヒスベルク大学教授となったのは46歳のとき。
主著である三大批判書が出たのはそれぞれ57歳,64歳,66歳のとき。
30代から40代はじめに書いた論文には,面白そうなタイトルのものが並び,著者はこれを新書本になぞらえている。

「地球は老化するか,物理学的考察」「火について」「地震論」「神の存在の唯一可能な証明根拠」「視霊者の夢」……。(p. 8)


何でもありのサイエンス本からオカルトブーム批判まで。
名前を売り人気を上げるために片端から手をつけたのか,サロンで得た最新事情を筆に乗せずにはいられなかったのか。

それから,カントは当時としては例外的な長命でもあった。
高名な哲学者であり,定年のないドイツの教授職であったことも加わってか,カントは老いによる衰えを人々に記録されることにもなるのだった。
いずれにしても,これほど著名な人物についてこんなにも知らない側面があったのかと意外に思うことしきり。

2016.07.18 Mon l 思想 l コメント (0) トラックバック (0) l top


ミラン・クンデラ『小説の技法』(西永良成訳)岩波文庫,2016年

クンデラの最初の評論集の新訳版。
旧訳は『小説の精神』のタイトルで出ていた。
今回は底本も原著者によるフランス語決定版に基づいている。
おそらく,クンデラの評論が文庫になったのははじめてだと思う。
これをきっかけに今後も評論集の文庫化が進むことを期待。

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クンデラの代表的な長編小説はどれも7部構成である。
なぜそうなのかについて,本書第4部の対談の中で語られている。
最初の『冗談』が7部構成だったあと,『生は彼方に』や『存在の耐えられない軽さ』で6部構成が試みられる。
ところが,6部構成ではどうも収まりがつかず,本編の流れとは違った内容の部を入れたり,ひとつの部を2つに分けたりした結果,やはり7部構成になってしまう。
あるいは,『可笑しい愛』には当初十編の短編小説が収録されていた。
しかし,決定版ではそこから三編を削除することになった。

こんなことを洗いざらいお話しするのは,魔術的な数字による迷信めいた気取りからでも,合理的な計算からでもなく,それが根深く,無意識的で,理解しがたい絶対的な要請,私が逃れることができない原型だと言うためです。私の小説は七という数字に基づく同じ建築の様々な変形なのです。(p. 123)


また,この構造は交響曲やソナタになぞらえられ,テンポや長さへの配慮が語られる。

この評論そのものも7部構成になっていて,やはり全体の流れが考慮されている。
第1部と第3部はクンデラによる小説史である。
(“ヨーロッパにおける”とつけるべきかもしれない。しかし,クンデラの思想に則るならば,ここでいう小説はやはりヨーロッパにおいてしかありえないのだ。)
第2部と第4部は二分割された対話・インタビューである。
第5部はカフカ論。
そして,第6部は用語集または箴言集である。
最後の第7部は講演原稿をもとにした小説論の締め。

第6部にちょっと違うものを持ってくるというのはどうもクンデラの好みらしい。
この第6部の冒頭はまさに“アフォリズム”ではじまる。

アフォリズム aphorisme 「定義」を意味するギリシャ語aphorismosに由来。アフォリズムとはすなわち定義の詩的な形式。(p. 169)


こういう断片調のものも面白い。
文学の終焉を想像する「活字」の項目などは,ボルヘス的なSFを思わせる。

2016.06.12 Sun l 思想 l コメント (0) トラックバック (0) l top


ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『ウィトゲンシュタイン『秘密の日記』-第一次世界大戦と『論理哲学論考』-』(丸山空大 訳,星川啓慈・石神郁馬 解説)春秋社 ,2016年

第一次世界大戦のおり,従軍中のウィトゲンシュタインは戦場で『論理哲学論考』の草稿を書き続けていた。
これが現在『草稿1914-1916』として知られる著作である。
ところが,この同じノートに書かれていたのは『論考』の草稿だけではなかった。
ウィトゲンシュタインは,同じノートの右ページには哲学的な考察の草稿,左ページには暗号で個人的な日記を認めていたのである。
しかも,この『秘密の日記』は長らくウィトゲンシュタインの“著作”の編集者や遺稿管理人によって隠されてきた。

本書は,その『秘密の日記』の全訳と大部の解説を合わせたものである。
『日記』のほうは読ませるために書かれたものではないので,それ単独では状況がはっきりとわからないものも少なくない。
周囲の人間や現在の環境に対する不平不満や悪感情,そうした感情を抱いてしまう自分への怒り,性欲や自慰の報告など,遺稿管理人たちが公にしないことを決めた理由がうかがえる記述もある。
執拗にくりかえされるのは,仕事ができたかどうかということ。
もちろん,この場合の仕事とは哲学的な探求のことである。
戦場にいてこんなに自分が哲学できたかどうかということばかり考えていて大丈夫かと心配になるほどである。
後半に進むにつれ,日付の間隔は開き,戦争への不安を含む短い叫びのような書きつけが増えていく。
そんな中でもウィトゲンシュタインは仕事ができているか,自分がなすべきことができているかを問いかけ,そうであり続けられるように神に祈る。

『日記』よりも分量の多い解説では,ウィトゲンシュタインが主に参戦した東部戦線の様子とその背景がくわしく紹介される。
『日記』の記述からはわからない部分が補われ,ウィトゲンシュタインにとっての第一次大戦がイメージできるようになっている。
惜しむらくは,この書物が『草稿』とセットでないところか。
本書では,再三再四この『日記』が『草稿』と同じノートの向かい合わせのページに書かれていたことに言及される。
そうであれば,この同じ書物に『草稿』も収録されていたほうがウィトゲンシュタインの思索の後をたどるのにつごうがよい。
さらにぜいたくを言えば,左ページと右ページの関係もできるだけ原典を反映させたほうがよかった。
そうすれば,『日記』と『草稿』の内容を時系列的にも連続性をもって検討することができたであろう。

ともあれ,ウィトゲンシュタイン個人に関心のある読者,特に第一次大戦との関係を知りたい読者には,これまであまり知られていなかった多くを得ることができるのではないだろうか。

2016.05.09 Mon l 思想 l コメント (0) トラックバック (0) l top
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